原作との違いから見る「インディゴの気分」。①(仮)
お久しぶりです。すっかり寒くなりましたね。
本当はもっと頻度を上げて、特に意味のないことでもポストしていこうかと思っていたのですが、やはりわたしとこの場所の性質上、難しく。
普段から特段に無意なことばかり考えているので、またしても1ヶ月以上のご無沙汰となってしまいました。
さて、今回から新しく「ポルノグラファー」「インディゴの気分」の2作品について、ちまちま書いていこうかと思います。
もともと当ブログのスタートが、これをやりたくてのことだったので。ようやっと本筋に戻って参りました。
今日はとりあえず1話分の、主にドラマ化にあたっての改変部分及びその差異と、個人的なツッコミについてメモしていきます。
考察と呼べるほどの代物でもない単なるメモ書きですし、以降もさしてクオリティは上がらないかと思います。
なんかすみませんね、相変わらず腐女心が死んだままでして。
これはつまりわたしという存在のアイデンティティが喪失している状態なのですが、まぁそんなことはどうでもいいよね人類。
…………
1話
・冒頭
原作ラストのタクシーのシーンを挿入。
「俺たちはもうベッドになだれ込んだりしないのだ」→「俺たちはもうベッドになだれ込んだりしないのに」
台詞の変更。
前者は未練を強く打ち消す語尾。物語ラストとして最適。
後者は未練が残っていることを示す言い方。冒頭に挿し込むことで物語ラストまで興味を持続させる効果がある。
また、エピソードの順番を組み替えることで「ポルノグラファー」未見の視聴者にはこれは彼らの現在で、過去に何かあったのを今から見せていくのだと示す効果がある。
「ポルノグラファー」を見ていた視聴者には、これは久住と出会うまでのエピソードなのだと含ませることが可能。
・城戸、帰りの車内での独り言
「都内までけっこうかかりそうだな」
言わない。普通こんな説明台詞は言わない。
だったら100歩譲って、時計をチラッと見て
「遅くなりそうだな」
のがずっといい。
他の仲間はこの後まだ飲みに行く=そこまで遅い時刻ではない
ということが先に示されている。
その上で「遅くなりそう」って言わせれば遠いんだってわかるし、具体的な地名が出る前に、木島が歩いて帰ろうとしているっていうことがどれだけの奇行なのかということもじゅうぶんに察せられる。
また、この会話には土地勘のない視聴者にもそれを伝える意味合いがある。
・「インディゴの気分〜〜」の件のカット
部屋に入ってから城戸が著書を手に取るだけに置き換え
・水シャワーのシーン
原作では城戸は背中を向けている。木島がチラッと下を見るのはドラマオリジナルの演出。この時点で木島からの匂わせを足している。
・「作家なんかやめたほうがマシだ」
木島が城戸に「フゥッ」てするのは原作にはない。
これが演出の意図ならば、酒気を帯びた呼気を吹きかけることで、木島は酔っていると読み取れる。
この手のことは役者さんの演技プランとは考え難い。人間の生理としてやりたくないしやられたくもないから。
・1話ラストシーン
ブランデーを注ぎ、城戸から一方的にビールで乾杯する。
原作では飲んでいるのは木島だけ。これは相手を自分の意のままに操ろうという心理描写だが、ドラマでは互いに飲むことで共犯関係に引きずり込もうとしている。
…………
ざっとここまで書き出したんですが、1話につき2時間くらいかかるんですよね。たったこれだけのことなのに。
これ自体はずいぶん前に作っておいたんですが、なかなか続きに手を付けられず。
本当なら最終話までをまとめて公開としたかったんですが、いつまで経っても終わらないので現状でとりあえず投げます。