無題。
ある男がガード下の露店で、古びたランプを買った。
まだ十月の終わりだというのに、特に冷え込みの厳しい夜だった。
彼はごく一般的なサラリーマンだった。
平凡な大学を卒業して平凡に就職し、平凡な仕事に追われながら平凡に酒を飲む。
男なりに悩みや葛藤は抱えていたが、たった一歩の踏み外しで簡単に社会から弾かれてしまうことも人並みに知っている。
しかしただ平凡で平穏に生きてこられたことがこの世の中でどれほど恵まれたことなのかを自覚しつつも、男には夢があった。
子供の頃から朧気に意識しつつも、ついに叶えることのできなかった夢。
男は小説家になりたかった。
小学生の頃はノートにあらすじを綴るだけだった。図書館に入り浸るような子供だったので、最初は見よう見まねだった。
中学に入ると新人賞の原稿募集ページを集めてはファイルするのが楽しみだった。肝心の原稿は一度も完成しなかったが、しかし男は諦めなかった。
高校に入学して初めて、同じように小説を書く仲間ができた。初投稿作は一次選考も通らなかったが、それでも徹夜で書き上げたあの日の高揚感を忘れることはないだろう。
大学でも書き続け、講義そっちのけで執筆作業をしては、締め切りと単位修得に追われる日々だった。
そして今でも、男はひっそりと書き続けている。
とはいえ一般的な会社員であり、原稿に充てられる時間は限られている。
今夜のように上司との飲みに付き合わなければならない日もあるし、週末は趣味の映画を観たり友人との交流もある。忙しければ休日出勤をしなければならず、勤続年数とともに責任も増す世代だ。
それでも男は書き続けていた。
酔った上司をタクシーに乗せ、さてと駅へ向かう道すがらにその露店はあった。
安物のアクセサリーや何だかよくわからないオブジェに囲まれて、そのランプだけが輝いて見えた。
財布から何枚の紙幣を支払ったのかも記憶にない。
それが品物に見合う額だったのかも怪しいが、とにかく男はそれを部屋へ持ち帰った。
狭いワンルームはこのところ掃除する時間もない。惣菜やインスタント食品のゴミの詰まった袋を避け、男はデスクにランプを置いた。
こうして改めて眺めてみても、やはり美しいフォルムをしている。
だが初めて目にしたときのような輝きは感じられず、男はそれを磨いてみることにした。
古いタオルで曲面を拭ってやる。すると煤汚れのようなものが落ち、ランプは元の輝きを取り戻したかのようだった。
自分に目利きの才能があるとは思えないが、これはきっといい買い物だったはずだ。
明日の朝になって財布の軽さと古ぼけたランプを見比べて、ため息をつくことにならなければいいが。
そんなことを考えながら、手を洗ってタオルを洗濯機に放り入れた。
風呂は朝でいいだろう。
疲れていたし、もう遅い。
部屋着に着替えて就寝準備をし、部屋の明かりを消す。
『俺を呼んだのは、おまえか』
暗闇から不意に、そんな声がした。
隣の部屋から漏れ聞こえるテレビの音、などではなかった。
明瞭な響きは明らかに室内からのもので、そして今の今までここには自分しかいなかった。
再び電灯のスイッチを点けると、やはり誰の姿もない。念のためクローゼットやユニットバスも確かめてみたが、誰も隠れてはいなかった。
「……誰だ?」
虚空に向かい呼びかける。
それほど酔ってはいないはずなのだが、酔っ払いほど酔っていないと主張するものだ。
だとすると今の自分は、道ばたで寝ている酔漢以下なのだろうか。
「誰……」
『俺を呼んだのは、おまえか』
同じ台詞が繰り返された。
そして男は直感的に、あのランプが喋ったのだと悟った。
どうしてそう思うのか、合理的な説明などできない。
だがもしかすると、あのランプには音声を発する玩具でも仕込まれているのかもしれない。
いったんはそう思いかけたのだが、けれど本能がそれを否定する。
あぁ、頭がおかしくなってしまったのか。
混乱しながらも、恐る恐るランプの蓋を開けてみる。
中は空洞で、覗き込んでもスピーカーの類いは見当たらない。
『おまえが俺を呼んだんだな』
今度こそ、男は知った。
声はランプの中から響いていて、意思を持ち会話を試みている。
「……何故」
『俺はおまえの願いを叶えるためにここに来た。おまえの願いを言え』
「対価は何だ」
これはよくある、魔法のランプだ。もしくは猿の手のミイラ。
願いを叶えるたびに何かを奪われ、最後には命を差し出すことになるという。
そう考えて問うたのだが、しかしランプは冷笑に似た声を上げた。
『そんなものは必要ない。俺はおまえの願いを叶える。それだけだ』
「何のために。何が目的でそんな……」
『俺のようなものがただ善行を成すのはそんなにおかしなことか』
言われてみれば、魔法のランプのラストはハッピーエンドだった。
猿の手は不幸になったが、これはランプだ。
「わかった」
男は胸に秘めた願いを口にする。
それは子供の頃から抱き続けた夢。
「小説家になれる才能がほしい」
言葉にした途端、喉の奥から十年前の情熱がせり上がってきた。
時間をかけて封印し、何度も諦めようとしてしかし捨てきれなかった夢。
男は作家になる才能を、喉から手が出るほど欲していた。
翌朝になって再びランプを手に取ってみたが、それはただの古ぼけたランプだった。
蓋を開けても声は聞こえず、昨夜見たのは夢だったのだと思うことにした。
数年後、結婚をして引っ越すときに紛失してしまい、それきり男はランプの存在自体を忘れてしまった。
男が作家になったかどうかは、わたしの知るところではない。